1031年3月
外に出たいと規子がせがむので、悦子は娘を屋敷近くの庭に連れ出した。
内親王一族の住まいは、御所の敷地の隅に建てられた屋敷で、御所に程近い。
帝直属の鬼狩りの一族とはいえ、特殊な事情を持った一族が、多くの人々が出入りする御所内を自由に歩き回る事は出来ない。ただ、御所の一角に作られた四季折々の花が咲く庭への立ち入りは許されていた。
様々な花が咲く庭を見て、規子は歓声を上げる。
悦子は「お花は、優しく触るのよ」と声をかけて、花の一つ一つに立ち止まる娘の後ろをついて行く。この三月の始めに来訪したばかりの娘には、これだけの花が咲いている風景を見るのは初めてで、目を輝かせながら花を覗き込む様子が愛らしい。
「ははうえ、これはなあに?おはなは?」
と、規子は、庭の一角の、痩せた木を見上げながら首を傾げた。
「これは…桜。でも、まだ花が咲いてないね…」
その桜の木は、日当たりが良くない場所に生えてるせいか、育ちが悪いようだった。少しずつほころび始めている蕾はあるものの、まだ一輪も花は咲いていない。せめて枝の蕾がよく見えるようにと、悦子は娘を抱き上げる。
ほんのりと淡い紅色に染まった蕾を、規子が勢いよく掴もうとするので、悦子は慌てて娘の体を退いた。
「だめ。だめよノリ。まだ蕾なんだから」
「つぼみ?」
「花が、咲く前の状態なの」
「さくまえ?」
「えーと…このお花は赤ちゃんなの。ノリより小さいの。わかる?」
「…そっか、おはなのあかちゃん」
こくりと規子は頷いて、今度は指先でそっと蕾に触れて、悦子を見上げる。
「わたし、おねえちゃん?」
「そうね、蕾よりも、ノリがお姉ちゃんだね」
娘の言葉が可笑しくて、悦子はクスクス笑う。
「おねえちゃんよ」と言って蕾をつつく娘の様子を見ながら、悦子は、ふと、自分の妹の事を思い出す。
悦子の妹の楽子は、今月、交神の儀で数日前に天界に招き入れられていた。儀式前に見かけた楽子はいつもよりも暗く、硬い表情をしていたので、声をかけようとしたが儀式の準備と娘の世話で声をかけそびれたままだった。ここ最近、自分の事ばかりで手一杯で、妹とゆっくり話す時間が取れていなかったと、悦子は反省する。
何か自分に言いたい事があったのではないか。
姉として、何か言ってあげられる事があったのではないか。
もっと気にかけておくべきだったかもしれない。たった一人の妹が、大切な妹が、不安な気持ちの時に側に居てあげられない事が、とても歯がゆい。
「ははうえ」
気付くと、大きな若草色の瞳が心配そうに自分を見上げていた。
「あ、ごめん…ノリ、なあに?」
慌てて、笑顔を作る。
「ははうえ、どこか、いたい?」
「ううん。大丈夫、大丈夫よ。ごめんね」
首を振って悦子は、規子を抱いたままゆっくりと庭を散策し始めた。
「ははうえ、これはなに?」
良い香りの上品な白い花。
「これは、梅よ」
「うめ」
指先で花に触れると、ひらりと白い丸い花弁が落ちて、規子は慌てて手をひっこめた。
「わ、わたしじゃ、ないよ!」
ふるふると首を振って、規子は悦子を見る。
「うん。梅はもうすぐ終わりかな」
また、来年…と言いかけて来年の梅は見られない事に気付いて苦笑する。言葉を飲み込んで、規子の弁柄色の髪をゆっくりと撫でた。自分の代わりに、この子が来年の梅を見てくれるだろう。
母親が怒っていないことに安心した規子は、再びキョロキョロと庭を見渡す。
「これは?」
鮮やかな赤い花弁と黄色の花芯。
「さ、山茶花…かな?」
と、首を傾げながら悦子。
「あれは?」
「あ、あれはー…蒲公英……かな…?」
風に揺れる黄色い花を見ながら、悦子は、段々自信が無くなってくる。
「…多分」
「ふうん?じゃあ、あれは?」
規子が、ひときわ強い香りを放つ毬のような白と赤の花を指さす。
「えーと……」
花の名前が分からずに、悦子は困って視線を宙に彷徨わせる。
「…帰ってからね」
幼少の頃から、体を動かす外遊びを好んでいた悦子は、花の名前にあまり詳しくない。誰か花に詳しい家族と一緒に来れば良かったと苦笑する。
「そういえば…」
(カネの所には、あまり、お花が無かったな…)
ちらりと、娘にそっくりな若草色の瞳を思い出す。
(でも、花とか好きそうよね?名前とか詳しそうよね…?)
詳しくは思い出せないけど、悦子の父神の神域は大きな木が沢山生えていたような気がする。まだ赤ん坊だった自分を抱きかかえたまま、木のてっぺんまで登って、笑いながら見せてくれた景色をおぼろげだが覚えている。
ほんの一月ほど前に悦子が交神月を過ごした館は、館の主のように暖かく、過ごしやすいこじんまりとした館で、調度も品の良いものが揃っていたが、庭の印象はあまりなかった。
あれは仮住まいだったから、だろうか、と悦子は思い至る。
(…そっか、お庭に花を一杯植えても、帰ったら世話が出来なくなるものね)
心の中で呟くと、胸の奥が小さく痛む。
天界の花も枯れるのかな、枯れなかったら種は出来ないのだろうか、種が無ければどうやって花は増えるのだろうか、なんて益体もない事を考えながら、寂しい気持ちをやり過ごした。
突然、華やかで甲高い笑い声が聞こえて来て、悦子は歩みを止める。
庭近くの渡殿を、宮廷づきの女官達が数人、渡っているのが見えた。女官の一人が、こちらに気付いて、規子を抱く悦子の姿を見て眉を顰める。
悦子は慌てて、規子を降ろして頭を下げた。
ふん、と鼻を鳴らして、きらびやかな女官達が静々と渡殿を通り過ぎる。
「あ」
女官達が通り過ぎる先を見て、規子が小さな声を上げた。
「ノリ?どう――」
娘に目をやった瞬間、今度は渡殿の方からきゃあと叫び声が聞こえて、女官達が何も無い所で次々転ぶのが見えた。
何もない中空を見て規子がきゃっきゃと笑い始める。
「…ええと…」
規子を抱き上げながら戸惑う悦子の髪を、ふわりと暖かい風が撫でるような気配。
「………カネ?」
今度は頬を撫でるような気配。
規子が満面の笑みで、中空に手を伸ばした。
「…いたずらしちゃ、駄目だよ…」
小さく呟いて、困ったような顔で悦子は俯く。
――あら、アタシ、別になんにもしてないわよー?
あちらがアタシに気付かずに勝手に転んだだけだもん、なんて、しれっと返事をする声が聞こえたような気がして。いけないとは思いながら、思わず笑みがこぼれた。
「あのね、おはなのおなまえ!おしえて!」
嬉しそうに声を上げて、規子が跳ねながら庭を横切り始めた。その小さな後ろ姿に悦子は声をかける。
「ノリ!よそ見して走ったら、転ぶわよ」
「――じん、ちょー、げ!」
花の名前を元気良く繰り返す声がする。
「えっと、つ…ばき?…ははうえー!これ、つばき、だって!」
先ほど悦子が「山茶花」と答えた赤い花を指して、規子が声を上げる。
「あ、ええと…ごめん」
やっぱり花の名前は分からない…と、苦笑いしながら悦子はゆっくりと娘の方へ歩いて行った。
20120703
悦子の娘・規子の訓練期間中のお話。
巫女と言うほどの力は、内親王家の娘達は持ちませんが、神様の子なので「地上で神の姿を見る力」があります。現在は夕子の命により、神々は簡単に地上に降りられなくなっていますが、自分の娘の訓練期間中だけは地上を訪れることが出来ます。けれど、その力は未婚の娘だけが持つもので、交神を行うと地上では神の姿を見る事が出来なくなります。なので、作中では、娘の規子は、親神様の姿が見えているけど、悦子は交神相手の神様の姿が見えていません。でも、気配くらいは感じるかなと言う事で…。
内親王家は帝の周りの人間…特に、女官達とはあまり上手く行っていませんでした。内親王家の世話役と監視も兼ねて、数名の女官達が内親王家の館に出入りしているのですが、女官達はプライドが高くて、「何でこんな薄気味悪い一族を、宮仕えの私達が世話しなくちゃいけないのか」と思っています。逆に京人は、あまり京人の前には出てこない内親王家の娘達を「薄幸の美しい鬼狩りの娘達の一族」とか思ってて、ちょっと同情的な目で見ている所があって。それが、余計、女官達には気に入らないと言う、ちょっと負の連鎖。
後に内親王家は帝と袂を分かって宮中から出るのですが、その少し後に一族と女官達との関係が少しだけ改善する出来事があります。その辺りのお話もいずれ。
悦子の交神話の中で、悦子から女官の話を聞いた時の旦那様の反応を入れ損ねてたので、もし、旦那様が訓練期間中に噂の女官達を見かけたら、どんな感じになるのかなぁ…と言う妄想が、とまらなくなっ、て……。
けれど、良く考えたら、この時期はお互い淡い恋心のようなものを抱きながらも、ラブラブとまでは行かない状態でした。特に、悦子は交神相手は、あと一、二ヶ月でご実家に帰ると思っていたし。
さて、一方、この時、交神に赴いていた楽子は、当初の悩みはさておき、交神相手をどうやったら手合わせで倒せるかと言う事に思いを巡らせていた時期ではないかと思います…(苦笑)。
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