1031年7月


 先月から体調があまり思わしくない姉を想って、楽子は家に残りたいと言い出した。
 楽子の姉の悦子は、今月で、一歳と十一ヶ月になる。来月になれば、二歳。恐らく来月までは持たないだろう…と、イツ花は悲しそうに首を振る。それでも、一歳と十一ヶ月でも、鬼に呪いを受けた自分達の身では長生きの部類に入る。

 ――― 生まれた時からずっと傍に居た姉が、もうすぐ居なくなる

 その事実をすんなりと受入れていた自分に、楽子は驚く。身近にせまった姉の死が、悲しくない訳ではない。どうしていいのか分からない位、悲しい。姉がもっと生きられるならどんな事でもしたいし、替われるものなら自分が替わりたいとさえ思う。
 そう思った時に、誰よりも命も愛おしんでいた、生真面目な蒲公英色の瞳を思い出した。
 (うん、大丈夫)
 一度強く目を閉じて、開く。
 もし、それが出来たとしも姉は喜ばないだろう。そういう人だ。きっともう、自分の命の終わりが来る事を受け入れている。
 (でも…これが最後、だから)
 この月だけは、姉の傍で過ごしたいと楽子は思った。

 今月の討伐隊を外れたい、と言いだした楽子の意図を悦子はすぐに察して、妹の申し出を断ろうとした。
 けれど、悦子と共に残るはずだった輔子が、
 「どの道、今月は当主様以外に一人は残る事になるんだし。私、折角だから、来月来る子の為に、もっと技を磨いておきたいわ」
 と、討伐隊長を買って出て、結局、楽子の味方をした皆に悦子が押し切られる形で、楽子が家に残る事になった。

 「…ごめんね…ナリが初陣なのに…」
 悦子の言葉に、済子は「立派に初陣を果たして見せます」と胸を張って生真面目に返事をする。楽子がそんな娘を見て、珍しく申し訳無さそうな顔をして、それを励ますように済子が「私は大丈夫ですから、母上も、当主様も、無理はしないように。イツ花がしっかりと二人を補佐してくださいね」などと言い出したので、周りの皆が吹き出した。


 討伐隊を無事に送り出したその日、悦子は安心したのか丸一日寝込んだ。
 翌日からは持ち直したが、悦子は日に日に痩せていく。イツ花も楽子もそれを心配して、横になっていたら、休んでいたら、と言うのだが、悦子は「床でずっと横になってると、なんだか本当の病人みたいになっちゃうよ」と苦笑して、その後は出来るだけ起きるようにしていた。
 歩き回ることは出来ないから、家で出来る当主の雑務を悦子が行って、外向きの用事は楽子とイツ花に任せる。特に仕事が無い時には、イツ花が買ってきたお菓子をお茶請けに、縁側から庭を眺めてのんびりと日々を過ごした。
 長雨に濡れて次第に濃くなる木々の緑を眺めながら、皆が討伐に言ってるのに私だけがのんびりしているのは、なんだか悪いような気がするね…なんて言いだすものだから、その度に、姉さんには姉さんの役割があるのだから、無理はしないで、と楽子は応えていた。

 そうして、一週間も過ぎた月の半ば、久しぶりに晴れ間の広がった夕刻。楽子は、縁側で歌集を広げている姉の姿を見かけた。
 声をかけると悦子は歌集から顔をあげて、ああ、と微笑む。
 「歌の…勉強?」
 楽子の言葉に、悦子は少し恥ずかしそうに頷いた。
 「うん。でもやっぱり、私にはあまり良く分からないや…」
 苦笑しながら、悦子は歌集を閉じた。
 元々、幼少の頃から歌を詠むよりも、木に登る事や馬に乗る事を好んでいた悦子である。交神月が終わって戻ってきた時に、和歌を習いたいと言い出した時には、周囲は一体何があったのかと驚いた。けれど悦子は、交神月の事については一切話そうとしなかったので、いまだにそれは一族の間でも最大の謎となっている。
 「母様の言うことちゃんと聞いて、小さい時から真面目に習っておけば良かったな…」
 歌集の表紙の文字を細い指で撫でながら、悦子は残念そうに呟く。
 「綺麗な言葉や、素敵な言葉や、優しい言葉が、世の中にはたくさんあるね」
 呟く横顔に言葉以上の何かを感じて、楽子は自分でも気づかない内に姉に話しかけていた。
 「…姉さんの…」
 そこまで言って、楽子は、躊躇うように言葉を切る。
 風に揺られて、庭の木々がさやさやと静かな音を立てる。
 「なあに?」
 歌集の表紙から目を上げて、悦子は楽子をじっと見上げた。
 楽子は気まずそうに目を伏せ、悦子の隣に腰掛けた。「どうしたの、ラッコ?」と不思議そうに言う姉の横に、しばらく無言で座っていたが、やがて、思い切ったように早口に言葉を続けた。
 「…姉さんのお相手ってどんな方だったの…?」
 「ん?」
 何を聞かれたのか分からなかったのか、悦子は首を傾げた。
 「三月の…私の交神月に、規子が来訪したでしょ?」
 「うん」
 「私、禊の前に姉さんに会いたい、って思って…」
 「うん。来たばかりのノリに庭を見せていたら、ラッコが来たんだったね」
 「あの時…華やかな狩衣を着た神様が、姉さんの傍に立っているのを、私、見たの」
 あの時の光景を思い出すと、楽子は今でも何とも言えない複雑な気持ちになる。見えてはいないはずの神様の手が、髪に触れる度に微笑む姉は、幸せそうで。その姉を優しく見つめていた神様は、多分、姉に少なからず好意を抱いていて。見たことの無い表情をする姉が、大好きな姉が、知らない人に見えて、遠い、と思った。
 「ああ……そっか………」
 楽子の言葉に目を丸くして、やっぱりあの時も来てくれてたんだねぇと呟いて、悦子は嬉しそうに笑う。
 その笑顔をさせているのは、間違いなくあの神様なのだと思うと、楽子はまた、少し寂しいような悔しいような気分になる。
 「…でも、あの…姉さんと一緒に幻灯で見た、ふくよかな可愛らしいお顔とは、随分違う方のようだったから…」
 そんな気持ちを飲み込んで、楽子は違う言葉を口にする。
 悦子は懐かしそうに目を細めて、
 「ふふ…私も最初、凄く驚いた」
 と、声を上げて笑い出した。
 楽子は驚いて、肩を震わせている悦子の顔をまじまじ見つめた。誰に聞かれても交神月のことを話そうとしなかった姉から、何か返事が聞けるとは思っていなかった。
 悦子はひとしきり笑った後で、

 「とても…優しい人よ」

 大事な秘密を話すような、大切な宝物を見せるような、そんな口調でそっと囁いた。
 「いつも、自分よりも人の事を考えてる、優しい人」
 穏やかに言葉を続ける悦子の表情に、楽子は何も言えなくなる。
 あの時も今も、見たことの無い優しい表情をする姉の、これは恋する娘の顔なのだと、今更ながらに気づく。
 「…元気かな…幸せに、なってくれるといいな…」
 最後の方はほとんど、独り言のように囁いて、悦子は目を閉じて楽子の肩にもたれかかる。
 「姉さん…?」
 そっと声をかけると、悦子はうんと頷いて、冷たい細い指で楽子の手を握る。
 楽子は黙ってその手を握り返した。
 そうしてしばらく、風が木々の葉を揺らす音を二人で聞いていた。


20120312

悦子の寿命月の小話。
姉妹水入らずで過ごしたのでした。考えてみれば、姉妹二人で過ごしたのはこれが最初で最後です。(屋敷内にはイツ花や、世話役の女官も居ますが)
悦子は別に病弱とか虚弱体質では無いのですが、スタミナが無い子です。最初の数ヶ月はモリモリと体水が上がって一個上の子の体水を追い抜いていたのに、ある時期を境にぱったりと上がらなくなってしまって。体水がやっと500超えたのは一歳四ヶ月になってからでした(他の一族は、大体元服前には500超えてました)。なので、一族内で身長は高い方(163cmあります)で、筋肉と脂肪がつきにくい体質で、スタミナが無い子と言う事になりました。
スタミナ無いくせに、気合は人以上にあると言う子です。きっと、その辺りは母親似(頑固な真面目っ子)。

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