1033年8月


 ぱたぱたと元気な足音が廊下をわたってくる。

 「母様!ぎゅー!」

 元気な声を上げて書庫に飛び込んだ俊子は、そのままの勢いで、母親の専子の背中に飛びついた。
 漢詩のお手本を片づけていた専子は、「ひゃぁ」と情けない声を上げて、そのまま転げる。手に持っていた漢詩の本が音をたてて何冊か床に落ちた。

 「な、な、何?俊子?」

 目を丸くしながら専子は、慌てて娘に怪我がないかを確認する。
 そんな事を気にも留めず、俊子は元気に言葉を続ける。
 「あのね、父様から伝言!」
 「た…剛史さんから?」
 愛しい人の横顔を思い出して、専子の頬がうっすらと赤く染まった。
 「父様がね、『母さんにも父さんのぎゅーを届けてくれないか』だって!」
 そう言って、俊子は満足げに専子の胸に抱きついた。
 「剛史さんが…」
 呟いて専子は俊子の瞳を覗き込む。愛しい人…剛史さんと同じ紅緋色の瞳。
 交神した自分には、地上で神様の姿を見る事が出来ないから、だから、娘に託したのだと思い至って、胸の奥が暖かくなった。同時に、少し寂しくも思う。
 (…見えなくても……)
 腕の中の娘を抱き返しながら、専子は、

 (触ってくれても…抱きしめてくれても、いいのに…)

 そう思って、自身の考えに顔が火が点いたように熱くなるのを感じた。
 「…母様、お顔、真っ赤よ…?」
 「いえ!あの…なんでもないわ」
 ぱたぱたと所在無げに手を振って、専子は慌てる。
 「でも、真っ赤よ?お熱あるの?」
 俊子の小さな手が専子の頬に触れる。ひやりとした感触が気持ちいい。気持ちいいが、その感触に違和感を感じて、専子は動きを止める。
 「……俊子、どうしてそんなに、手、冷たいの…?」
 「手?」
 専子の問いに俊子はしばらく首を傾げていたが、やがて「あ」と声を上げて、慌てて手を引っ込める。いたずらを見つかった時のような表情。更に専子が問おうとした時、

 「俊子様、ああ、こちらにいらしたんですね。そろそろ、アレ、良いみたいですよ…?」

 書庫の入り口から顔をのぞかせたイツ花が、俊子の姿を見つけて声をかけてきた。
 それを聞いた俊子は急にソワソワした様子で、
 「あっ!…あのね、母様、お片付け終わった?休憩する?」
 猫目がちな大きな瞳をキラキラさせて、専子を見上げる。
 「なあに?」
 何かを企んでいるような娘の様子に、専子は首を傾げた。

 「ふふふ…母様は、お縁でちょっと待っててね!」

 元気に廊下を走る後姿を見送りながら、専子は言われた通りに縁側に腰掛ける。暑さの盛りを過ぎ多少は過ごしやすくなったとは言え、日中はそれでも庭に陽炎が揺らめいている。

 暑い中で、可憐に咲く桔梗の涼しげな淡い青紫色を見ながら、
 「今日も、暑くなりそうね…」
 少し火照る頬を押さえて、専子は一つ息をついた。
 専子が生まれて、二度目の夏が過ぎようとしている。去年の夏は母様が居た。今年の夏は娘が居る。
 「…早いものね…」
 誰にともなくぽつりと呟いた。

 そうして、庭の草木を眺めながら暫く待っていると、俊子が盆に茶碗を乗せて帰って来た。珍しく神妙な顔つきで、俊子は茶碗の中身を零さないようにゆっくりと専子の前に茶碗を置く。
 「はい、母様の分」
 茶碗の中には、透明でトロリとした液体。
 「これは…」
 仄かな甘い香りに懐かしいものを感じながら、俊子はそれを一口啜った。

 「…甘い」

 呟いて、懐かしい味に、じわりと目頭が熱くなる。
 交神月の一番最初に、剛史さんが自分に作ってくれた葛湯と同じ味。あの時の葛湯と違い、良く冷やされていて、それが、暑さに乾いていた喉に気持ちいい。
 「あのね、冷やし葛湯、って言うの」
 自分の分を一気に飲み干して、俊子は満足そうに頷く。
 「ひやし?」
 「冷たい葛湯なの。暑いから、冷たい方が美味しいよって父様が教えてくれて。だから、今日は、早起きして冷ましていたの!イツ花も、冷たい井戸水汲むの手伝ってくれたのよ」
 ねーと声を上げて、俊子はイツ花に目配せをする。
 「…だから、俊子の手、冷たかったのね」
 「うん!冷たいお水、気持ちよかったわ」
 何度も何度も、熱い葛湯を冷ます為に冷たい水を入れ替えていたのだろうと、専子は思う。

 「とても美味しいわ、ありがとう」

 微笑みながら言う専子に、俊子はまた嬉しそうに声を上げて笑った。

 「うん!また、作るね!私、母様の大好きなものいっぱいいっぱい作るからね!」


20130523

文ではないけど、愛してるよと言う伝言の話。
交神を終えた娘は、地上で神様の姿を見る力を失うので、交神相手の神様が子供の様子を見に来訪していても姿を見る事が叶わないのですが。子供を通じてでも、何か伝えられるものがあるといいなと言うお話をしていて、専子の旦那様の剛史さんの場合は俊子を通じてぎゅーの伝言です。
この後、野宮の祭壇に、俊子と専子で冷やし葛湯を注いだ茶碗をお供えしてます。祭壇の先の空間は内親王家の天界と繋がってて、地上から天界にちょっとした贈り物なら送れるようになってるといいです。ただ、天界のものは地上に持ち込み禁止(夕子さんの方針)なので逆方向は無理ですが。
俊子の料理の師匠は、父神様です。来訪した月の後半になると、少しずつ父様に料理を習って、一ヶ月で料理の基礎を叩き込まれています。俊子の料理の味は父様譲りです。内親王家の子達は宮中育ちで、世話は全て女官がやってくれるので、本格的に料理をしたり家事をする子が居なかったのですが、俊子の代から変わっていきます。

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